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コルシカ島:Bonifacio

コルシカ島2日目
南端のボニファシオ(フランス語:Bonifacio/コルシカ語:Bunifaziu)。

ボニファシオはコルシカ島に南端にあり、ボニファシオ海峡を挟んでイタリア領サルデーニャ島と向かい合っている。ボニファシオにあるボニファシオ湾は幅200m、長さ1.5kmという細長さ。両岸には石灰岩の岩肌が迫る。


大きな地図で見る

湾の外海側は「指状」になっててその先端(湾の出口)には大きな岩山があり、岩山の上は平らになっていて、ここに要塞(旧市街 la Haute Ville)がある。湾から登ってみた。

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(要塞の真ん中付近から見たボニファシオ湾)

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要塞の岩山はなかなかの景観!

見る角度を変えてみるため、ちょっと登ってみた。

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(ボニファシオ湾出口方面をみる)

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(Grain de sable:要塞から東側をみる。断崖絶壁が続く)

崖下には大きな洞窟がいくつかあり、要塞の突端の下の洞窟は「青の洞窟」として、波が穏やかな時は洞窟内に観光船が入っていく。



828年、ボニファシオはローマ教皇庁から島の防衛を命じられた(=初代トスカーナ辺境伯)コロンナ家ボニファーチョ2世にちなんだ地名をつけられ、要塞が形作られた。ボニファーチョ2世は難攻不落の要塞(自信の海軍基地)と、トスカーナ辺境伯所有の海軍基地を建設した。

現存するシタデルの大半は、1195年以降のジャノヴァ共和国支配下での建築とされる。その後、数回の修繕(再建含む)がされている。近年まではフランス外人部隊の支部があった。

コルシカ島の町の中では最も見応えがある要塞はここにある。

現在も機能している要塞の入り口。
(車が通る)

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要塞内は旧市街。
la Haute Ville(上町)またはvielle villeと呼ばれる。

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ナポレオンはフランス軍士官時代、ここに駐留していた。

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場所が場所だけに華美な建築物はない。

道路は風の通り道どおり。旧市街の中の道路は狭く城壁際は迷路のようになっている。

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気になる喫茶店に入ってみたら・・

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すごい景観だった(コワッ!)

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教会

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昼のフェリーで対岸のイタリア領サルデーニア島にわたる。

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ボニファシオ湾を出たところ。
要塞の先端から要塞内の旧市街が見える。

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(要塞下のこの洞窟は出入り口の形状から「ナポレオンの帽子」と呼ばれる)



ボニファシオ海峡からみた旧市街

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よーくみると「アラゴン階段」が。

1420年につくられた階段。海上からの高さ80mの崖の表面を、斜め45度に掘って187段の階段をつけている。

つくるのを命令したのは(現在のスペインの北東部にあった)アラゴン王国アルフォンソ5世。当時、イタリアのジェノバ共和国やナポリ王国へと軍勢を進めており、その過程の1420年にコルシカ島の(イタリアはジェノヴァの支配下にあった)豪族をボニファシオに追い込んだが、結局、要塞は戦争では陥落しなかった。

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サルデーニヤ島とのカーフェリーが行き交う。
1日に5〜8本あり。

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普通サイズの乗用車に運転手+助手で70ユーロくらい。
1時間くらいの船旅。



コルシカ島の歴史。

ギリシャの影響を受け、紀元前238年から紀元前3世紀までローマの支配下に置かれたが、5世紀頃にローマ帝国が分裂すると、アフリカ大陸アルジェリア方面等の蛮族(海賊)に襲われコルシカ島は荒廃。11世紀までの約600年間、人々は山岳部に逃げて自給自足の生活をした。こういう事情からコルシカ島には蛮族が信仰するイスラーム教もキリスト教も根付かなかった(暗黒時代という)。

数度の十字軍遠征でヨーロッパからイスラーム勢力が駆逐されると、ローマ教皇庁はコルシカ島でもキリスト教布教するため、イタリアのピサ共和国にコルシカでの領有を認める。ピサの活動は宗教的なものが主だったため、平和な統治期間だったようだ(1077〜1284年)。

1195年、コルシカ島支配を狙うイタリアのジェノヴァ共和国は、ローマ教皇庁とピサ共和国の目が届きにくい島南端のボニファシオを攻略、砦を要塞化する。ピサ共和国の抗議を無視して島内の主な海岸に次々と要塞を築城する。

1284年、ジェノヴァ共和国はピサ共和国を「メロリアの海戦」で滅ぼしてコルシカ島を支配下におく。ローマ教皇庁は「布教活動の確約を宣言」したジェノヴァ共和国の支配を渋々認めたが、コルシカ島民は重税と物価高、徹底した弾圧を受けた。島の有力者は島外に連れ出し、反乱の芽を摘むべく敵性住民は殺戮した。

1724年、サンピエルの指導で10年間に及ぶジェノヴァの圧政に対する反乱が起きる。フランスはサンピエルを支援したものの、ジェノヴァ共和国とあっさり和解したため(カトー・カンブレジス条約)、サンピエルの反乱軍は鎮圧された(サンピエーロの乱/第1次蜂起)。

1729年末、本格的な反乱は徴税を巡るトラブルから山岳地帯コルテから起きた。反乱は小規模なものだったのでジェノヴァ共和国は放置していたが、反乱は次から次へと起きたため、手が付けられないものになった。

コルシカ島の自治組織(12人委員会)は1736年、一介の山師だったケルンのノイホフ家テオドールを「コルシカ国王テオドールⅠ世」として迎え入れた。だが国王は貧しさを嫌って摂政数名を任命して逃亡、ジェノヴァ共和国の抵抗にも遭って2年で退位。皮肉にもこのコルシカ王国は欧州発の立憲君主国家となった。

ナポリ王国に追放されていたパスカル・パオリを将軍として召還。パオリは優れた指導力により島の内陸部からジェノヴァ勢力を駆逐。

1755年、「コルシカの独立宣言」をし、パオリを首班とした独立政府を樹立した(首都はコルテ)。近代国家の原型をつくったパオリは今もバーブ・ヤ・バヂュリア(祖国の父)として崇められている。

一方、借金苦のジェノヴァ共和国は1768年、フランスとの間でヴェルサイユ条約を締結。条約の内容は「フランス軍をコルシカに派兵/コルシカ独立運動を鎮圧したら99年間は島の統治権をフランスに譲る」というもの。フランスはアフリカ大陸への足がかりとしてコルシカの支配を狙っていた。

1769年、進軍したフランス軍の大攻撃により、コルシカ軍は降伏してパオリはイギリスに亡命。フランスはコルシカ島を併合してコルシカ独立戦争(40年戦争/コルシカ革命/第2次蜂起)は終わった。

コルシカ島アジャクシオ出身のナポレオン・ボナパルトの父親は弁護士で、この独立運動に参加していた。だがナポレオンが生まれた頃の父は、宥和政策を行った支配者フランスに迎合し下級貴族の仲間入りした(コルシカ時代の名前:ナポリオーネ・ブオナパルテ)。

フランス革命がおきる。コルシカ島独立運動に参加していた(フランス軍中尉となっていた)ナポレオン・ボナパルトだが、「フランスの騒乱中ならコルシカが独立出来るかも」と考え、国民公会(フランス新政府/フランス革命政府)を容認した。

パオリは国民公会の許可を得てコルシカに帰還したパオリだが、ルイ16世夫妻および一派の処刑など、革命をエスカレートしていく国民公会を次第に嫌った。パオリらは「コルシカ島の英国間接統治」を主張するパオリ派を形成。国民公会容認派のナポレオン(ボナパルト家)と対立した。

1793年、国民公会はパオリに逮捕状を出したが、逆に国民公会に従順なボナパルト一族を島から追放した。彼らはマルセイユに逃げた。ナポレオンはコルシカ独立運動と決別する。

1795年、パオリは英国軍とともにコルシカ島に上陸。「アングロ・コルス王国」を築くが、副王ギルバート・エリオットと対立したため、英国政府の命令で英国に三度目の亡命。

1796年、フランス軍司令官となっていたナポレオン率いるフランス軍のコルシカ島派兵により、島は再びフランス領となる(1807年に英国で死去)。

そのナポレオンは後にフランスの皇帝となるが、1814年の失脚後は「コルシカ人=ナポレオンの同郷者」として脅威と差別の対象になる。

フランスの作家等は文明国フランスとは大きく異なるコルシカ島を、「因習的で野蛮」と書き立てた。このため、コルシカ人は国籍はフランスであってもフランス人ではない、とみなされた。

第二次大戦中、コルシカ島はイタリア軍によって占領される。

フランス本国からの差別もあって、島民の中にはレジスタンスに身を投じる者も少なくなかった。このことにより(フランス領内では)いち早く、1943年には連合軍によって解放された。

戦後のフランス政府はコルシカ島に対して大規模な観光開発や農業開発を進めたが、フランス本土から投資等で入ってきた富裕層、アルジェリアからの再入植者たちが恩恵を受けただけゆえ、1960年代以降は民族主義運動が高まり、固有の言語コルシカ語を公然と使った。

コルシカ解放戦線(FLNC:Front de Liberation Nationale de la Corse)はフランスからの完全独立を求める暴力路線にまで発展したが、1983年にコルシカの要求を受け入れる形でフランス政府がコルシカ議会の開設を認めてからは、そうした独立運動は沈静化しつつある。

だがFLNCは解散命令にもかかわらず現在も非合法活動継続中。別荘が攻撃対象となっる事案が多く、コルシカ資本以外の企業が海のそばにホテルや観光施設が建設が始まると爆破事件が起きたりする。爆発事件は複数回起きるため、巨大ホテル計画は頓挫するそうだ。

近年、経済状態が思わしくないフランスでは、一部の政治家からは「いっそ(維持費にカネがかかる)コルシカ島を独立させたら?」と言い出している。コルシカ島では逆に難色を示していて皮肉な結果に。。



このような経緯からコルシカ島はフランス領だが、固有の言語コルシカ語はかなりイタリア語に近いことから、「フランスよりイタリアに親近感をもつ島」となっている。

実際にコルシカの人と話しても「サルディーニヤの島民とは普通に会話できる。何故なら私達の言葉と近いからね」とのこと。

ナポレオン・ボナパルトはコルシカ島出身者として有名だが、コルシカ島では「父親がコルシカ独立運動に参加した経緯がありながらフランスに迎合して(下級)貴族になり、息子はフランス皇帝になってもコルシカ島の独立を認めなかった」として人気はない。


夏のバカンスで世界各地から旅行者が100万人以上訪れるらしいボニファシオ。

パリス・ヒルトンはここでドラッグで捕まっていました(笑)


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コルシカ史概説

すっごい!
自分、大学でヨーロッパ史やっていたのですが(専門は19世紀末ロシア)、
カバーしていないところがバッチリ書いてあって(抜けが多いです。^^;)、
ものすごく勉強になりました。
なんでコルシカの人が差別されてきたかとか、20世紀になってもキナ臭いところなのか、
とか、ようやく理解できました。@@

比較的統一国家の成立が遅かったヨーロッパの諸地域は、
現在もいろいろ複雑な事情を抱えているようですね。><

にしても、海に張り出した崖の上に、石造りの民家?が立っている様子にビックリです。
日本じゃありえない…。
喫茶店、絶景過ぎます~。^▽^; 落ち着いてお茶飲めました?

みっくさま

コルシカ島の歴史というより、ナポレオン好きだったのでちょっくら勉強していました。今は独立はもういいや…のコルシカ島民、いざこざが多すぎるので手放していいんじゃね?のフランス本国とか、こればっかは地元に行かないとわからないネタでした。

崖の上の民家って、わたしゃー無理ですね。この喫茶店のオヤジが言うには「何回か家ごと滑落した事件もある」って。ひゃ〜
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赤カナリア♂のアカオさんは2011年8月4日に虹の橋へ旅だってしまいました☆

旧ブログ→http://harukovsky.cocolog-nifty.com/blog/

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