軍ヲタ的には「仁川」といえば、空港ではなくて、朝鮮戦争の戦局を一変させた「仁川上陸作戦」が思い浮かびますな。
朝鮮戦争と仁川上陸作戦
成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が朝鮮半島の主権を巡り、1950年6月25日、北朝鮮が宣戦布告なしに国境を越えて奇襲侵攻したことによって朝鮮戦争が勃発した。当事国ばかりでなく、利害のある諸外国も多国籍軍(国連軍)や義勇軍として参戦した。
軍事力が著しく劣る韓国軍(兵員約98,000人)は、1950年6月25日に北朝鮮軍の奇襲攻撃を受け、緒戦で早くも総崩れになる(当時、米軍は駐留していなかった)。新しいが数少ない重火器と定まらない戦術(結局、日本式の人的損害を顧みない人海戦術に頼る)、訓練不足が主原因とされる。

7月7日に結成された多国籍軍(国連軍)も準備不足で、共に朝鮮半島南東部の洛東江戦線(釜山)まで追い詰められ、徹底抗戦で北朝鮮軍の進撃を止める程度だった(米軍の前線には黒人兵が配置されていた)。
マッカーサー元帥はクロマイト作戦(仁川上陸作戦)を発案。米軍参謀本部&海軍の強い反対を押し切って、同年9月15日にソウル西方約20kmの仁川へ上陸、仁川上陸作戦を実行。9月28日、ソウルを奪還した。
この作戦の成功で戦況を一変させる。朝鮮半島南部に大攻勢をかけていた北朝鮮軍は、伸びきった主要補給路を断たれたため、同年9月末迄に北朝鮮軍を戦争以前の北緯38度線まで後退した(10月に38度線を越えて中朝国境の鴨緑江に達する進撃するも、中国人民志願軍の参戦があって38度線近くまで潰走・膠着。現在に至る)。休戦締結は1953年7月27日。

米軍(連合軍)がブルービーチと呼んだ干潟を見下ろす山の山麓に、仁川上陸作戦記念館がある。
인천상륙작전기념관
(インチョンサンニュッチャクチョンキニョムグァン )

正面奥が仁川上陸作戦記念館だが・・・道の両端はラブホと居酒屋だらけ。横道はラブホ・ラブホ・ラブホ・・・英霊もビックリでんな。



北朝鮮も真っ青な、北朝鮮というか中国というか、共産主義国家的な彫刻物じゃね?

記念館の上から「レッドビーチ」を見る。現在は干潟を埋め立てている(仁川国際流通団地になるらしい)。手前に松島遊園地とやらが出来ている。

記念館の全体図。

記念館の外に使用兵器が置かれている。
Hawk Missile
アメリカのレイセオン社が開発した対空誘導ミサイル。低空域から中空域を飛行する戦闘機や爆撃機を撃墜する。ホークとは、Homing All the Way Killerの略。

おっ!水陸両用装甲車LVTがある。米軍が仁川上陸作戦で持ち込み、ソウル奪還作戦でも使われたやつ。海上11km/h、陸上32km/h、搭乗人員は25人。Landing Vehicle Trackedの略。

米軍(第5海兵連隊)が万石洞のレッド・ビーチの海岸に到着し、はしごを用いて岸壁をよじ登って上陸している・・・写真を彫刻にしたもの。

元の写真はコレ。
アルミ製梯子は米軍が日本アルミ(大阪市淀川区)に発注したもの。17フィート(約4.3m)が60台で納期は10日以内だった。さすがにコレは無理で納期を14日間にしてもらい、台風襲撃で工場に被害は及んだものの上陸5日前に納入完了!

RF-86F SABER・・・ノースアメリカン社が開発したジェット戦闘機。朝鮮戦争当時、直線翼のジェット戦闘機では中国人民解放軍所属のMiG-15がでは抗しきれず、アメリカ空軍は急遽F-86を投入して、朝鮮半島上空にて史上初の後退翼ジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。
投入から休戦までの約2年間で損失は78機だったが撃墜数約800機。以後、F-86は世界各国で採用された。
なお、この記念館では「セイバーRF型戦闘偵察機は、韓国戦争時、偵察および爆撃を行い、共産軍の侵略を撃退するのに輝かしい戦功を立てた。韓国空軍が、休戦後米空軍より引き取った」と書かれている。

0-1 AIRPLANE
「この航空機は、軽偵察及び軽観測用として陸軍で任務を遂行し、1985年7月、この記念館に展示した」と書いてあるが・・・
アメリカのセスナ社製の軽飛行機「セスナ170」の軍用型の0-1じゃないのかなぁ。

LCVP上陸用舟艇。
長さ12m×幅3m、重さ7トンの揚陸艇。仁川上陸作戦で使用した船で、兵員(だけなら30名)、装備、中型車両を運んだ。

LCM 上陸用舟艇。
長さ17m×幅4.7m、重さ28トンの揚陸艇。仁川上陸作戦で使用した船で、兵員だけなら80名、水陸両用戦車および車両などを運んだ。アメリカ海軍ではLST(Landing ship,tank )と呼ぶ。

M-47 Patton
朝鮮戦争がきっかけで開発され、北朝鮮軍のソ連製T-34戦車に対抗するため、休戦後の1957年に西部戦線に配置された戦車(朝鮮戦争には間に合わず実戦経験なし)。だが砲撃時の衝撃で射線軸が狂う欠陥戦車だったため、早々にM-48に更新された。

朝鮮戦争時、米軍の主力戦車はM-26 Pershing だった(仁川上陸作戦でも60両余上陸させている)。火力と装甲ではソ連製T-34-85を圧倒するものの、重量のわりにはパワーがなさすぎた。朝鮮半島はやまがちなので機動性に問題があった。
そこでM-26を改造したM-46 Patton が作られて前線に配備された。朝鮮戦争でM-46は計12回の対戦車戦闘を経験(8輌を失う)。休戦後は砲撃支援やトーチカ代わりに使われ、後継のM-47とM-48が投入されると全車退役した。
ちなみに北朝鮮軍の戦車はT-34/85とSU-76、BA装甲車だった(仁川上陸作戦→ソウル奪還が終わった頃には航空攻撃と補給不足でほぼ全滅)。

3/4トン、日本製トヨタトラック
「3/4トンカーゴトラック(日本):このトラックは、兵士及び軍需品の輸送用として1952年導入され、陸軍において任務を遂行し、1986年この記念館に展示することになった」

戦後、日本の自動車業界は瀕死状態だったが、朝鮮戦争勃発すると米軍は、Dodge M37を模した3/4トン軍用トラックを大量発注した。トヨタは9ヶ月の間に4679台のトラックを製造したそうな。
■
館内に入ってみる。
この記念館は1984年に開館された。仁川開港100周年にあわせて建てられた。国費と寄付併せて280億ウォン(約20億1500万円)かかった。
「本記念館は1950年、共産勢力の不法侵略により陥落危機に陥った大韓民国の危機に対し、UNの旗の下に一致団結し、命を捧げて民主主義と自由を守り抜いた自由陣営諸国家の若者達の崇高な犠牲精神を永遠に称え、その志を尊ぶために、韓国戦争当時の戦況の逆転に決定的なきっかけになった仁川上陸作戦が行われたこの場所に、1984年全市民の真心を込めて建立されることになった」
・・・・だそうです。

朝鮮戦争では当事者の韓国軍は総兵力106,000だったが、装備がなさすぎ(戦車ではなくM8グレイハウンド装甲車50輛、砲91門、迫撃砲960門、練習機の航空機22機のみ)。しかも初戦で既に総崩れしたため、休戦協定を結ぶまでは多国籍軍(国連軍)が主役だった。そのためか、展示物はありきたりもの・・・だけ。
クロマイト作戦(仁川上陸作戦)の命令書のコピー

マッカーサーはクロマイト作戦(仁川上陸作戦=Battle of Inchon)を7月23日に発案している(戦争開始は6月25日)。案は3つあり、仁川(100-B)、仁川の南方150kmの群山(100-C)、朝鮮半島東側の注文津(100-D)をのいずれからか上陸を考えていた。そして軍事的必要性から仁川を選んだ。
だが作戦は下記の理由で反対された(1〜4の条件なので、作戦意図が北朝鮮に察知されたたら、作戦実行日・実行時間まで特定されてしまう)。(苦戦している)釜山橋頭堡への増員が望ましいと言われる。
1.仁川港は干満の差が平均6.9m(最大で10m)、干潮時には港の周辺は約3.2kmの干潟となる。
2.実行するなら大潮の9月15日の朝晩2回の満潮時刻の2時間に揚陸を行うことが絶対条件(10月以降は季節風の影響を受ける)。
3.飛魚水道(幅2km弱、長さ90km)以外に月尾島に接近するルートがない上に、水道を機雷で封鎖される可能性がある。
4.上陸用舟艇の接岸に適した砂浜がない。上陸するのに兵士達は高さ5mの岸壁をよじ登らなければならない。
マッカーサー本人曰く
「成功率0.02%の作戦」だった。
仁川地区に展開する北朝鮮軍兵士は総計約2,000人、ソウル一帯に約5,000人、仁川〜ソウルに約3,000人。哨戒艇はほぼ無力化、戦闘機は19機だった。
8月12日、作戦発動を下令する。
8月23日、仁川上陸作戦実行部隊(第7統合任務部隊)を編成する。
第7統合任務部隊は米軍第7艦隊を基幹に、英・仏・カナダ・豪・NZ・オランダ・韓国が加わった。米軍第7艦隊の指揮官ストラーブル中将はノルマンディー上陸作戦の他、22回の上陸作戦を経験している。
韓国軍からは、攻撃部隊に哨戒艇4隻、掃海艇7を出す(全体では艦艇260余隻)。上陸部隊(第10軍団)で韓国第17歩兵連隊戦闘団(韓国側の発表では兵員約5,000人)、後方任務の在日韓国人学徒義勇軍642人(135人が戦死)らの参戦を出している。作戦遂行のため8月頃より韓国軍諜報員を使って仁川地区の島嶼に諜報部隊を送り込む。
だが、マッカーサーは「非黄色人種の目」を重視しており米軍からも白人のクラーク大尉と通信兵(各々に韓国人通訳)の一行なる諜報部隊を送り込んでいる。。。
クラーク大尉らは仁川上陸作戦を遂行するに際し、仁川北西部にあるレッドビーチ(岸壁)から上陸が良し!と判断。上陸用舟艇から直接岸壁に上がる作戦のため、日本アルミ(大阪市淀川区)にアルミ梯子60台を発注する。
1.月尾島の攻略
仁川上陸にあたり、まず仁川駅前にある月尾島を攻略する必要があった。月尾島は北朝鮮軍が洞窟陣地をつくり、沿岸防護のための機雷を敷設していた。
・9月10〜12日、空母2艇から月尾島に向かってナパーム弾を投下して島を焼き払った。
・9月13〜14日、駆逐艦・巡洋艦計10艇が至近砲撃と機雷除去をする。
・9月15日、6時半(1度目の満潮)に第1海兵師団第5海兵連隊第3大隊が、島の北西沿岸(グリーンビーチ)に上陸。洞窟陣地から北朝鮮軍約400人が反撃したが45分で鎮圧に成功。
2.仁川上陸
9月15日、17時半(2度目の満潮)に二手に分かれて上陸作戦を開始。北朝鮮軍(守備隊)はほとんど反撃を行わず日没時に撤退する。
・仁川の北西部(レッドビーチ)の岸壁;第1海兵連隊。岸壁を上れば住宅地。
・仁川の北西部(ブルービーチ)の干潟;第5海兵連隊。干潟を歩いても泥沼。
残りの第10軍団、第7歩兵師団、機甲・砲兵部隊の計約25,000人が上陸に成功(最終的には兵員約65,000人、M26戦車60両以上が上陸する)。第5海兵連隊はこの日のうちに仁川〜ソウルを結ぶ街道まで進軍した(9月29日ソウル奪還完了)。
北朝鮮軍の抵抗を受けた(レッドビーチの岸壁から上陸した)第1海兵連隊の被害は、戦死者20人・負傷者174人だった。
仁川上陸作戦のジオラマ
韓国語・中国語・日本語・英語で詳細が聞けるボタンあり。

ジオラマの前にあるマッカーサー元帥と愉快な仲間達。

双眼鏡を持つマッカーサーの両脇が、米軍将校から…韓国軍兵になり替わっている。そして見学者もマッカーサーと記念写真が撮れる(爆笑)。腹筋決壊・・・
モデルになった構図はこの写真(と思う)。

(揚陸指揮艦マウント・マッキンレーより観戦するマッカーサー(中央)、第10軍団アーモンド少将(右)、GHQ民政局局長ホイットニー少将(左)。9月15日撮影)
「大韓民国万歳」が書かれている日章旗。在日韓国人学徒義勇軍を送り出した時のもの。

「マッカーサーLOVE」に満ちあふれるマッカーサーのコーナー。装飾品など全て複製。
マッカーサーは東京を拠点として朝鮮半島の戦線に行き、一時滞在して(ほぼ日帰りで)東京へ戻るという指揮形態を繰り返している。

マッカーサー Douglas MacArthur は韓国式英語で
メガド(맥어더)という。韓国人にマッカーサーと言っても通じない。
■
自由公園に建つマッカーサー元帥像

台座には「ダグラス・メガド将軍像」と書いてある。1957年、ドイツの商社「世昌洋行」宿舎の跡地に建てられ、公園の名前が現在の自由公園になった。
韓国人は概ねマッカーサー(韓国的にはメガド)が好きらしい。
だが「マッカーサーが朝鮮戦争に介入していなかったら戦争は1ヵ月以内に終わり、朝鮮半島は分断されることもなかったはず」と言う人も少なくない。こういった人々はこの像の撤去を求めている。

2005/09/15(金) 朝鮮日報
米下院、「マッカーサー像の撤去論は極めて遺憾。嫌なら返してくれ」と盧大統領に書簡
米下院国際関係委員会が15日(韓国時間)、マッカーサー将軍銅像の撤去論議について韓国側に強い遺憾の意を表明し、銅像の毀損・撤去に対して反対する立場を明らかにする書簡を盧武鉉大統領に伝達して、波紋が予想される。
ヘンリー・ハイド委員長を始めとする議員5人の名義となったこの書簡は、15日にワシントン駐在韓国大使館を通じて、国連総会に参加中の盧大統領に伝達された。
ハイド委員長は書簡の中で、「マッカーサー将軍の主導した仁川上陸作戦が成功しなかったら、今日の韓国は存在しなかった」として、「撤去のための毀損行為が続くようなら、 むしろアメリカに銅像を譲渡してくれるよう丁寧に提案する」と明らかにした。
書簡はまた、「米議員らは、マッカーサー将軍像が安全な状態で米国に戻れるよう、あらゆる努力を講ずる。米国に帰って来れば、朝鮮戦争記念館に近い米議会内の名誉ある場所にまた建てられる」と述べている。
書簡は更に、「過去数ヶ月間、韓国で銅像撤去のための暴力的行動があったという報道に接して、不安な気持ちを禁ずることができない。米議会とアメリカ人たちが、韓国を二度も解放し同盟軍を率いた英雄を『'戦犯』扱いして貶めることに対し同意できないのは言うまでもない」と強調した。<中略>
書簡は終りに、「下院議長室には、初代大統領ワシントンと、アメリカの独立を支援したラ・ファイエット侯爵の写真が掲げられている。200年あまりの間ラファイエット侯爵がアメリカ人たちの心に深く刻まれているように、マッカーサー将軍に対する記憶も韓国人たちの心の中に大切に仕舞われることを期待する」と付け加えた。
(仁川上陸作戦の成功が無ければ、韓国の釜山橋頭保戦線は崩壊して朝鮮半島全域にソ連の影響力が及び、ベトナム情勢とも絡んで東アジアの歴史は変わっていたかもしれない)
■
現在の自由公園(かつての各国公園→西公園→万国公園→自由公園)から、仁川上陸作戦で最初に上陸した月尾島がよく見える。

朝鮮戦争の呼び方
・日本;朝鮮戦争、朝鮮動乱
・韓国;韓国戦争、韓国動乱、6・25(ユギオ)
・北朝鮮;祖国解放戦争
・中国;抗美援朝戦争
・英米;Korean War
参戦国
・韓国側;アメリカ、多国籍軍(連合国軍)としてアメリカ、イギリス、フランス、カナダ、オランダ、ベルギー、トルコ、タイ、フィリピン、ルクセンブルク、ギリシャ、コロンビア、オーストラリア、ニュージーランド、エチオピア、南ア。掃海部隊:掃海船20隻・巡視船4隻・試航船1隻で4つの掃海隊を編成した占領下の日本(27個の機雷を処分。MS14号を触雷で喪失。死者1名負傷者18人)。医療部隊としてデンマーク、イタリア、ノルウェー、インド、スウェーデン。
※エチオピア軍兵士(約1,200人)は牛や山羊や羊の生肉を食べる食習慣があり、朝鮮戦争の戦場ではわざと生肉を食べるところを見せつけた。北朝鮮軍兵士にはこれが人肉を食うと誤解し、勝手に彼らを恐れたそうな。
・北朝鮮側:歩兵中心を核とする中国人民志願軍(実際は人民解放軍第四野戦軍)として中国、軍事支援(人的支援はパイロットと整備員のみ)としてのソ連。要は兵器はソ連が供給、人材は中国が供給。
朝鮮戦争では、地上戦が複数行われた都市も多いため、多くの犠牲者がでた。その数はJ・ハリデク「朝鮮戦争」によると、北朝鮮兵士・市民の死者は250万人、韓国市民100万人・韓国軍人5万人、米国人54,000人、中国軍人100万人(合計死者数355万人)となっている。ただし中国の国防大学は2010年に「朝鮮戦争で死亡した中国人民志願軍の兵員が18万人前後」と訂正している。
戦争とは別に、朝鮮戦争中に共産主義(左派)とみなされた韓国人25万人が、自国の軍隊や警察・民兵などに殺されたと推測される。盧武鉉政権になってようやく明るみに出た事実。
以上、仁川レポ、終了。
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